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2022年9月

国立新美術館でやっている李禹煥展に行った。平日に行ったからか人が少なくて快適。石畳の部屋、砂利の部屋、土の上にプラスチックの板を敷いた部屋と展示室内の様相ががらっと変わるのが面白かった。特に土の部屋は、プラ板1枚隔てたすぐそこに土が見えているのに触れることはできなくて、無菌室のような過保護さを感じた。きちんと掘り起こされたふかふかの土といった茶色をしていたのもあり、幼少期の畑で走り回っていた頃を思い出してノスタルジックになってしまった。音声ガイドもあったのだけど、自分のスマホでQRコードを読み取って聴けるタイプで、この間買ったJBLのTWSイヤホンが活きた。音声ガイドを聴きたいVSノイズキャンセリングしたいになる場合が多いので…。東京都美術館に行ったとき、音声ガイドをアプリから聴ける(機械を借りるより高いけど)ようだったから今後はこういう形式が増えてくるのかもしれない。貸し出しのヘッドホンはサイズが合わなくてイライラするし、Bluetoothに慣れてしまうと線が煩わしい。同じく国立新美術館でやっていたルートヴィヒ美術館展も行ったけど印象が薄い…。

ライアン・ガンダー展にも行った。手をかざすと緯度と経度がプリントされた紙が出てくる発券機があって、やってみたらグリーンランドのど真ん中だった。同時に黒坂祐の絵も展示されていたのだけど、「いいじゃん」と率直に思った。印象・日の出を思い出す赤い太陽と、車のフロントガラスが額の役割をした家の絵が良かった。

今年は各社月見バーガーを出しているが、とりあえず定番のマックのものを食べた。去年あった柚子胡椒のシャカシャカポテトが好きだったのに、ポテトの供給が不安定だからか今年はナゲットになっていたので残念だった。

久々に映画館に行ってNOPEを観た。AKIRAのバイクのシーンのオマージュがあってはしゃいでしまった。雲の中になにかある(いる)点と、写真の撮り方からラピュタを思い出した。ラピュタでもカメラのシャッター音がああいうばしゅん、みたいな音だったような気がする。エンジェルが名は体を表すみたいな行動をしていたのと、同じ映画館でテネットを見たのもあってニールと重なった。やっぱりSFはIMAXレーザーで観るに限る。だいたい池袋に行くことになるのが嫌なので(駅が嫌いすぎる)、もっと各地にIMAXが増えて欲しい。

キース・ヴァン・ドンゲン展を見に行ったら思いのほか好みで図録まで買ってしまった。オランダ出身で、パリに出てきて新印象派からフォーヴィズムへと移行、洗濯船に移り住んでピカソと交流があったとのことで、山田五郎の動画を見ていたからあの辺の時代か〜という想像がしやすかった。最初にあった娼婦の挿絵の絶望感がとてもよかったし、ほっそりした女性たちも、折れそうなほど脚の細い馬や犬、ゆるい動物たちも、色遣いもよかった。

いい加減うっとうしかった髪を切った。タイミングが合わず2ヶ月半ぶりくらいになってしまい、すいてもらって床に落ちた毛量がやばかった。色は前回と同じ、久々に前髪を作り、姫カットっぽくサイドの髪をぱつんと切ってもらった。前髪を作ると眉毛が隠れるので、眉を描くのをサボりがちになる。

9月も相変わらず湿度、気圧がつらかった。台風がくる季節だからしょうがない。頭痛薬を消費しまくっていた。2回あった3連休はどちらも台風がきて、特に後半にきた台風がものすごかった。雨も風も強く、雷も家が揺れるくらい大きかった。

シルバーウィークの最終日は神奈川県近代美術館の葉山館に行ってアレック・ソスの展示を見た。入ってすぐドキュメンタリー映像の整理券をもらって上映時間までに見切れるボリューム感だったので、そこら辺は調節してるのかなと思った。馬と暮らす人が自分は穴の空いたボロボロのTシャツを着ながら「一週間に70ドルもかかるが馬はそんなこと知らないから」と言いながらエサをあげていてなんだか泣きそうになってしまった。両親がドラッグを売っていたという人の歌がやけに上手くて、歌詞を忘れちゃったみたいなことを言っていたけれど、この歌を彼の人生のどの場面でどういう風に知ったのかなと思った。この日は一日中天気が良くて、台風一過の影響かカラッと晴れて、秋っぽい青空も、海もきれいでとてもよかった。

Syrup16gから久々にお知らせがあって嬉しい。前に行った全曲新曲のライブのアルバムやらDVDが出るらしく、それに伴ってまたライブをやるみたいだが日程的に確実に行けないのが悲しい。Tシャツ付きのアルバムもあるらしいからデザインよかったらそれを買おうと思う。

常々人生あと残っているのは消化試合だけだなとずっと思っていたけれど、これから先嬉しいことより悲しいことの方が多いと気づいてから本当に後は消化するだけだなと思った。 違う世界線もあっただろうが、その世界線を回避したいがために選んだのだし、自分の人生は自分がどうにかするしかないし、親だろうが恋人だろうが子供だろうが他人の人生に乗っかって肯定感を得ても意味がないでしょう、と何度も確認している。回避してきたことに対して劣等感を覚えなくはない。でも、本当に無理だと思っていて、無理だと分かっていることをやてもしょうがない、本当に。 そうして自己肯定感と愛情みたいなものをついに理解できないままなんだろうなと思う。 こういうことを思っていたあとにアレック・ソスの展示を見て、俺は…生きるとは…になった。