昨年ナミブ砂漠のライブカメラが話題になってから、暇な時にちょこちょこ見ている。ダチョウや馬が見られるとちょっと嬉しい。ナミブはまだ2021年なんだ、と思いながら日暮れを見ていた。元日にねほりんぱほりんの再放送がやっていたのでダラダラ見ていたら、記憶をなくした人の回をやっていて、「記録が記憶になる」というな話をしていたのでlainだ…と思った。
2日にはもうさっさと東京に帰ってきた。お土産を買いに駅地下に立ち寄ったら、箱入りの萩の月が完売していてびっくりした。そんなに人気だったっけ。何かで紹介でもされたのか、いつもこんなものだったんだろうか。たいてい最中をお土産にすることが多くて、菓匠三全は立ち寄ってこなかったのでわからない。きりがいいので2022年からは、エンボスレスのデザインになった新しい楽天カードに切り替えようと思っていたのに、お土産を買う際、いつものくせで前のものを使ってしまった。ネット通販各社も切り替え済のところとそうでないところと混ざったまま決済した気がするので、来月の明細がごちゃごちゃになるな…。エンボス分の厚みがないと、このちょっとの差でも、フラグメントケースのカードの取り出しやすさが全然違う。
帰省の行き帰りで新幹線に乗って、日常で必要な場面はほとんど無いけれど、こういうときはイヤホンが欲しくなるなぁと思った。
4日から仕事始めだったが、在宅勤務でよいことになっていたので助かった。年末から本当に寒くて寒くて仕方がなかったので、外に出なくていいのはありがたい。5日からは普通に出勤したが、本当に寒くてどうにかして休みたいなと思いながら出勤していた。6日は東京にしては大雪で、警報がでるほどだったので、上司から早めに帰るようにという呼びかけがあった。自分の通勤手段は地下鉄なのであまり関係なかったが。こんなに積もると思わず、いつものローファーを履いてきてしまったのでつるつる滑って怖かった。一度盛大に転んだし…。両手と腰を打つくらいで済んだけれど、この歳になって派手に転ぶとどんな怪我になるか分からないな…と思った。雪景色の東京は、非日常感があって綺麗だった。
来月の電気代が7000円くらいになりそうだ。真夏と冬以外は3000円いかないくらいの電気代なので、いつもの倍以上になる。やっぱりスチーム式の加湿器が効いてるんだろうか。でも、湿度が低いと部屋が寒いし、部屋が寒いとベットから動かなくなって日々を無駄にしてしまうので、暖房と加湿器は好きなだけ使った方が良い。それに、スチーム式の手入れの楽さは、もう超音波式に戻れない。
前にネイルを断捨離した際、オレンジ系のネイルを全部捨ててしまったので、新しいものがちょっとだけ欲しい。osajiの「路地裏」という黄色と、銀色のマットネイルも良いなと思っている。あと、THREEの春のベージュネイル。でもベージュならukaの方がよさそうな気もする。手持ちのネイルはまだ使える状態でドロドロになったりはしていないけれど、そこそこ古いものなので今ある分を使い切ってから新しいものを買った方がいいとは思うが、ザ・イエベ秋みたいな色を使いたいなあ、と思っている。ついでに装飾的な話でいうと、最近急に、ずいぶん前から塞がってしまっているピアス穴を復活させたくてしょうがない。ピアッサーでばちんとやればいい話なんだけれど、しばらく痛いだろうと思うとなかなか踏み出せない。学生の頃は雑貨屋に大抵ピアッサーが置いてあった気がするけれど、今ってどこで買えるんだろうか。興味が無かったから目に入っていないだけか?いくつになろうがピアスなんて好きに開けていいのはわかっていても、自分がピアスを開けたのが確か中学から高校に上がるくらいの時だった記憶があり、どうしても「高校生っぽさ」を感じてなんだか気恥ずかしい。
このデジタル庁の発表を受けて
デジタル庁は7日、学習履歴など教育データの利活用に関する政府の取り組み方針をまとめた行程表を公表。校外活動も含めた学びの情報を連携させるためのIDの導入などについて検討し、教育データを生涯にわたり蓄積・活用できる仕組みを構築します。https://t.co/9DteI6ySVn
— 時事ドットコム(時事通信ニュース) (@jijicom) January 7, 2022
このツイートが本当にそうだなぁと思った。生きている瞬間すべてが学びと関係している、という発想がここにはない。ぜんぶ履歴が残り、デジタル的に管理できると思っている。愚の骨頂でしょ。
— Mineo Takamura・髙村峰生 (@mineotakamura) January 8, 2022
serial experiments lainに、「記録にないことは記憶にないこと」「記録なんて書き換えてしまえばいい」という文言が出てくる。記録にないということは、つまり「なかったこと」。「なかったこと」でも記録にあるから「あったこと」になる。そういうことが可能になるのではないかなぁとぼんやり思った。記録として残すことでいい部分はもちろんあると思うけれど、デジタル庁にいいイメージが全くないので、悪い方向にしかいかないだろうなと思ってしまう。
ロバート・ブラウニングの詩のように「What was, shall live as before(存在したものは存在し続ける)」と思う。記憶や記録になくても何かがあって、その繰り返しで生きているのに。ただ、「たかが世界の終わり」のように、知らなければ、記憶にないことは、起こらなかったこととして生きていくこともできる。でもこれは個々人での祈りや救いにしていくものであって、外部から定められるものではないはず。
ainを見てから、「記憶」と「記録」ということを結構意識するようになった。この月一まとめ日記は日常をどんどん忘れていくから記憶を記録にして、あったことをなかったことにしないためにやっているけれど、
言葉って自分の考えていることの完全な翻訳ではない(言葉の方が圧倒的に少ないから)から正確に話すように気をつけていないと少しずつ自分の気持ちとずれていって気付かないうちに全然違うことを話すようになる
— 遠くの雷鳴 (@Qtgit) December 22, 2021
これはそうだなぁと思った。ここに記録したことは全てじゃない。言葉で、記録で、ログを残せる部分はほんのわずか。こうして他人の言葉を引用することすら、もうすでに何かがこぼれおちているということを自覚していないと、こぼれおちているということも分からないままだ。
たまたま聞いたスペースで、Apple Watchとかで全部ログを残すのが嫌だと話していた人がいたけれど、私もあまり向いていないかもなと思った。自分の感じた感覚の方が絶対大事なのに、無意識に記録が全てと思ってしまうところがある。メンタルにムラがあるから、全て面倒になって感覚を外部に委託したいとも思うが、そういう時こそちゃんと感覚を持っておかないと戻れなくなる気がする。
記録について考えていた時に目に入ってきたツイートで直接関係はないんだけど、この「死を切実なものと思うはず」という考えと、感覚が欠落していきそうな今の生活との対比みたいなことがぼやっとあるんだけどうまくまとまらない。昨夜も書いたけど、木下恵介の「黒澤の『生きものの記録』はなぜコケたか?」の分析が凄い。「東京にあんなに空襲があっても、僕達は死の恐怖を切実に感じなかったじゃないか。黒澤君の誤算は”みんなが死の恐怖を切実なものと思うはず”と考えたことだ」っての。コレ、絶対、今の人から出ない見方だよな pic.twitter.com/GTpUH8jVhQ
— 。 (@madanaizo) January 5, 2022
そんなことを考えながらナミブ砂漠のライブカメラをぼんやり見ていたら、珍しくキリンがいて、しかも3頭もいたのを見られたのでラッキーだった。
週末に友人と豪徳寺に初詣に行った。前から買ってみたかった豆招き猫を買って、ついでにおみくじを引いた。久々に大吉を引いた気がする。「親を大事にしなさい」とあったので、本当にその通りだなぁと思った。お昼は天丼を食べた。いつも並んでいるらしいお店だったけど、すんなり入れた。茄子とかぼちゃがとても美味しかった。帰省の際買ったお土産を無事に渡せたのでよかったな。今年もどうぞよろしくお願いします。